アルバイト先の縁でいきなり放送作家に転身人気テレビ番組のレギュラーは充実しながらも葛藤の日々──メディアに関わるようになるきっかけは?──テレビに出演されるようになった経緯は?──『笑っていいとも!』というと、いきなり第一線級の番組ですね。──テレビに出るようになって生活も変わりましたか?──今では伝説的な番組『夢で■えたら』のメンバーにも抜てきされました。と、東京の洋風お惣菜屋さんのお店でアルバイトをしてたんですね。そこで「ラジオとか雑誌に投稿したのが採用されたんですよ」という話をしていたら、お店のオーナーが「親戚に放送関係の人がいるから紹介しようか」と言ってくれたんです。それがきっかけで、放送作家として事務所を紹介してもらいました。コネ入社みたいなもんです(笑)。を書いたり、それを演出したりするんですけど「ここは桃井かおり風で」みたいな指示を入れると、「これはどうやってやればいいんですか?」とディレクターから聞かれるんです。そこで私がやってみせたらウケて、「じゃあ、出てもらえますか?」という話になりました。喜んで出演させてもらいましたね。いてるって思ったんです。出演するとリスナーから応援のハガキをもらえたりして、こんなに手応えがあって、喜んでくれる人がいるなんて、こんな短大入学のため東京に出てきて、卒業したあラジオの放送作家としてコントそのラジオがあまりにも楽しくて、自分に向楽しいことはないなと思いました。ところが、その番組が終わっちゃったんですよ。それでもステージに立ちたいという気持ちが強かったので、どうしようかと考えました。サブカル界では知られた渋谷ジァン・ジァンという小劇場があって、素人でもテープオーディションに合格すれば舞台に立てるというシステムがありました。そこに出てみようと思い、応募して舞台に立たせてもらうことになったんです。すると、最初のステージを放送作家の故・永六輔さんがたまたま見てくださってたんです。舞台のあとに声をかけてもらって、いろいろと厳しく指導してくださって……。そのあと、ご自分のライブに呼んでくれたり、プロデューサーを紹介してくれたりして、テレビに出してもらえるようになったんです。初めて出演したのは『冗談画報』で、初めてのレギュラーがタモリさんの『笑っていいとも!』でした。私が音楽と笑いを持ち芸にしたいと思ったのは、短大時代に見たタモリさんのライブで衝撃を受けたことがきっかけでした。音楽と笑いの組み合わせって、これは自分が目指したいところだなと再確認できて。こんな芸で人前に立ちたいと、明確に思ったのがそのときだったんです。なので、タモリさんの冠番組に出られることになったときは、運命を感じましたね。ないなということも、よく分かりましたね。チャン、野沢直子さんというメンバーだったので、私が一番年上でした。それまでは周りが年上の人ばかりで、私をちやほやともり立ててくれてた現場でしたが、それが一切ないですよね。そして、自分よンプレックスを感じてしまって、それは精神的に大変でした。の芸があって、それを組み立ててパッケージとして人気番組に出してもらえるようになって、状況はガラッと変わりました。もちろん有名になってうれしい一方で、例えば、街を歩いていてサインを求められる日常というのは、実際はこんな面倒なことなのかと思ったり(笑)。スーパーで買い物をしていても「この人は何を買っているんだろう」という感じで中身も見られたり。そうすると、今まで買っていた半額セールみたいなものはやっぱり買いにくいし(笑)。憧れていたはずの芸能生活は、外で見ているほど華やかで楽しい毎日では『夢で■えたら』は、ダウンタウン、ウッチャンナンり明らかに面白い人たちと一緒にいると、結構コそれに、これまではモノマネや音楽などの自分o3
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