VIVOVA VOL.122 2024 SPRING
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「教師」が嫌いだったからこそ教師になる道を選んだ──教育に興味を持ったきっかけは?──教師としての実際の仕事は、どうでしたか?──研究者の道を進むことになった理由は?違って体罰を受けたり、体罰に反発したら単位をもらえなくて留年させられたり、心の傷になるような経験がいくつかあったからです。していたんですが、母親に相談すると、「直樹は一番先生に向いているよ」と言われたんです。僕が教師に傷付けられたことをよく知っているはずなので、驚きました。母親は小学校の教師をやっていたことがあり、教師の仕事もよく知っていました。非行に走ったり、不登校になっていたりする子どもの気持ちがよく分かるから、僕は教師に向いていると言うのです。なるほど、学校生活に恵まれていない子どもの味方になるというのであれば、自分にもやれることがあるかもしれない──そう思ったのがきっかけです。最初は私立の高校に赴任して、生徒に好きなようにやらせようとしました。国語の授業で作文を書かせるのですが、内容が素晴らしいので、勝手に学校で印刷して文集を作ったりしていまし実は僕は、「教師」という存在が嫌いでした。間大学4年の就職活動ではマスコミを受けたり僕はちょっと変わった教師だったと思います。た。そしたらある日、事務長に呼び出され、紙を使いすぎだと小言を言われたんです。僕はてっきり、頑張っていいものを作ったから、褒められるものだと思ってたんですよね。私立校にはそんな息苦しさもあったので、その後、公立の中学校の教師に転身しました。そこでは本当にのびのびとやらせてもらいました。ただ、公立には公立の苦労もあります。公立校は自由だと聞いていたので、夏休みに生徒を連れて勝手に合宿をやったのですが、帰ってきたら「届出が出てない。事故があったらどうするのか」と、教頭に怒られました。毎月開催していたクラスの保護者会で「怒られちゃいました」と報告したら、保護者は「だったら自分たちで保険に入るから、大丈夫!」と応援してくれて、3月には、今度はきちんと届出をしてまた合宿に行きました。僕は突っ走るタイプで、新しいことや改革などをどんどん進めていったのですが、生徒は楽しんでいたし、成績も上がって、保護者も味方になってくれました。学校はとにかく子どもが中心です。子どもが笑顔で成長していく姿があれば、親は全面的に教師を応援してくれるんです。9年目に異動願を出して、多摩地区の学校に          赴任しました。悪い地域ではなかったのですが、そこでも体罰が横行していました。それまで僕は、2つの学校で体罰をなくしてきましたが、またテーターとして呼ばれたとき、僕が「犯人は中学い当てたことで有名になり、その後は事件があるたびに呼ばれるようになりました。しゃべるようになり、著書も増えていたので名前いないという状況にだいぶ悩んでいました。結果クターストップを言い渡されたのです。これまでの英知が詰まった教育学がベースになる一からやり直しです。その頃には、テレビ出演も増えていました。当時のNHK教育テレビの番組で、1989年に国連採択された「子どもの権利条約」について解説したりしていました。また、ある事件でコメン生じゃないですか?」とコメントして犯人像を言そんな感じで、研究者でもないのにメディアでが世間に出るようになりました。しかし、口では理想を語っても、自分の学校の問題は解決してとして病気を患ってしまい、医者から1年間のド一方で、当時、現場ですぐに役立つ理論を発信してくれる人がいないことに大きな不満がありました。実践に役立つ研究もありましたが、文章や概念が難解なものが多かったんです。でも、現場での実践は、自己流に頼った教育ではダメで、必要があります。それなら、自分が「臨床的視点」を持った教育学を確立していきたい、と次の道を志したのです。そこで教師を辞めて、まずは、ヨーロッパ、特に教育に関する研究が進んでいた北欧を中心に視察してきました。そして自ら、臨床教育研究所o3

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