本場アメリカのバスケットの衝撃に打ちのめされプレーからマネジメントへ──高校でも実績を残されて、大学へ進まれます。大学進学の際には紆余曲折がありました。高校2年では国体にも出場したりして、2年の夏頃には進学先が決まっていたんです。でも、その大学で監督が交代になって、話がすべて白紙に戻ってしまいました。当時は推薦での進学が主流だったので、時期を逃すとほかを探すのも難しく、焦りもありました。そんなとき、インターハイでの僕のプレーをたまたま見てくれていたのが、大阪商業大学の監督でした。試合後に声をかけてもらい、そこから一気に話がマネジメントの考え方を学ばせてもらったことは、僕の財産になっています。──ここまでバスケ一色で歩んできて、卒業後はどのように考えていましたか?当時はまだプロリーグがなく、トップ選手の一部は実業団チームに行っていましたが、バスケの選手として目指す先がボンヤリしていました。目指すものがないのであれば、とりあえず就職しようかと考えて、広島に戻って建築系の商社に就職しました。ヘルメットをかぶって、現場にも出ていましたよ。でもその後、日本初のプロリーグ、bjリーグ誕生の話を聞き、「このタイミングで挑戦しよう」と決断して、会社を辞めてアルバイトをしながら練習漬けの生活を送りました。その後プロテストなどを経て、老舗のプロチームである新潟アルうよiversalRealAbilityを立ち上げました。進んで、入学が決まったんです。監督は非常に優秀な方で、特に、組織作りやチームビレックスBBに拾ってもらいました。ただ、日本でプロとしてプレーしながらも「これが目指した場所なのだろうか」という疑問もありました。そんな気持ちを決定付けたのが、アメリカ遠征でした。──どのような経験だったのでしょう?トボールを追究する者として、本場をしっかりと見ておきたいという気持ちからの行動でした。NBA、カレッジ、高校の試合を見て、現地のキャンプにも参加しましたが、そこで感じたのは、「これはもう太刀打ちできないな」ということでした。プレーのレベルはもちろん、施設や運営方法など、すべてが別次元なんです。これでは、まるで日本のバスケットボールは趣味のレベルではないか、と思ったほどです。しかし一方で、マネジメントやコーチングの分野では日本人のほうが向いているという手応えも感じました。帰りの飛行機で、「プレーヤーとしては終わり。次はスポーツを支える側に回ろう」と決意したんです。広島に戻ると、すぐにスポーツ選手やチームをマネジメントするUn──そこからプレーヤーからマネジメント側に回ったわけですね。はい。アカデミーやスクール、イベント運営、Webサイトの作成、グッズ販売まで、いろいろとやりましたね。東大の准教授と一緒に、トップ選手のシュートを科学的に分析して指導メソッドを作ったこともありました。でも、いくらスクールで成果を出しても、「バスケットボール」というスポーツの価値が低いと、社会的評価はついてきません。野球なら、日本一になればドラフトや大型契約へとつながりますが、バスケにはそれがなかった。だから、競技そのものの価値を上げたいと思っていた矢先、Bリーグが発足することになったんです。 26歳のときに、3週間ほどアメリカに行きました。バスケッ
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